日程
9月7日(水)~9月8日(木)
9月7日の予定
6時30分 東京駅 銀の鈴団体集合待合い広場集合
7時8分発 東京駅-10時19分着 新花巻駅
課題 それぞれの施設を見学しての感想(枚数問わず)
☆注意事項☆
飲酒喫煙は禁止です。
早寝早起きの習慣を各自つけておいて下さい。
電車の時間厳守。
携帯電話は前日充電しておいて下さい。
歩きやすい服装で来て下さい。
おやつは300円までです。
※詳細は皆さんの家に郵送しました。
届かない方は助手・山下まで連絡を。
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四時半に王子駅北口待ち合わせです。ななちゃん、みずきちゃん、後藤くんに連絡がとれないみたいだけど、大丈夫ですか?
渡辺裕美
『永訣の朝』。私はこの詩の美しさがわからない。ただ寂しく悲しく、不吉な不気味さを感じる。なぜだろうか。
降る雨雪は、きれいなもののようだ。しかしそれが生まれてきた出所は、暗く、おそろしげである。最愛の妹、トシの臨終であれば、詩の全体が明るくなろうはずもないし、精神のダメージだって測り知れない。死んでしまうというのは、この世から消えて無くなってしまうことである。それはそれは想像を絶する寂しさと悲しさであろう。しかし、この詩がもつ寂しさは、下の弟妹たちの一人、トシが死んでしまった寂しさではない。特にかわいがっていたことを加味したとしてもだ。ではどういう寂しさか。それは「ふたりきり」のう片割れがなくなってしまった寂しさである。孤立したような、切り立った寂しさだ。この詩では、トシ一人の臨終であるにもかかわらず、賢治はお椀を「ふた」つ持って雨雪を集めている。この「ふたわん」が、この賢治とトシの、この世でのふたりきり感をあらわしている気がする。それはすなわち、この世で本当に愛し、信じるものはお互いだけ、親も弟も、その中(仲)には決して立ち入れないような強く深い結びつきである。本来「妹」という存在は、仲の良さは突出していても、家族の一員に変わりない。弟も、父も母も、自分も。それぞれが助け合ったりぶつかったりしながら、一緒に生きていくのである。今ある家族は、「ホントは弟なんかいなくなったって、生きてこれたもんねー」ということではない。死んでいい人間が世界に一人もいないように、賢治が生き、死んでいった宮沢家で、誰か一人でも欠員がでたら、あの一家は伝えられてきた、あの、同じ形であるわけでもなく、もっと違う家族になっていて、賢治は作家にはなっていなかったかもしれない。家族とは、一員一員が非常に大切で、大きな意味をもつものなのである。それを踏まえると、妹の臨終に際したときの詩は、残った家族ではなんとか協力して生きていく、といったメッセージがあってもいいと思う。最愛の妹が亡くなるのは悲しいけれど、今までもこれからも、自分には自分の家族しか、家族ではないのだ。だから、トシと共に生きてきたこの家族で、生きていくのだ。それが残された兄の、役目でもあるだろう。しあkし、この詩にはそのようなところが一つもなく、唯一「わたくし」と「トシ」以外に出てくる第三者も「みんな」である。